top of page
アイコン.png

スピリチュアルって、なに?

私たちの本質である魂意識で生きること

「スピリチュアル(spiriual)」とは、直訳すると「霊的な」という意味、「スピリチュアリティ(spirituality)」は「霊性」という意味です。「霊」という言葉にはさまざまな手垢がつき、なにやらオドロオドロしいものを感じる人もいるかもしれませんね。でも、もともとは、人間や宇宙の“本質”をさす言葉。英語では、霊=スピリット(spirit)で、「精神」という意味もあります。

私たちの本質は肉体ではなく、霊(魂)です。アネモネでは、その霊の源である光に向かって進化成長しながら、魂を主軸として生きていくことを「スピリチュアルな生き方」と呼んでいます。「スピリチュアリズム」とは、狭義では、近代のイギリスで発祥した心霊主義をさしますが、アネモネではもっと広くとらえ、スピリチュアルな生き方・在り方のことをいっています。

スピリチュアルは、すべての分野のいちばん深い層のこと

大きめの本屋さんには、「スピリチュアル」というジャンルを設けてくださっている店舗があります。それもあり、「スピリチュアル」という特定の分野があるものだと、多くの方が思っていらっしゃることでしょう。でも、正確にいうと、そうではないのですね。

スピリチュアルとは、人・物・事すべての根底にある礎の領域のことです。芸術、科学、スポーツ、美容、医療など、すべての分野のいちばん深い部分をさし、その深い眼差しからとらえた世界観・人生観・宇宙観によって生きていくことそのものをスピリチュアルといいます。ですので、本来、スピリチュアルに分野はなく、強いていえば、オールジャンルにまたがるといえるでしょう。

オカルトとスピリチュアルの違い

スピリチュアルと似たような言葉に、「オカルト」があります。オカルトとは、「超自然的な」「目に見えない、隠れて見えない」という意味。スピリチュアルの「霊的な」という意味とは、根本的に異なる概念であるのに、なぜ同一視されてしまうのでしょうか。それは、霊的なことも目に見えず、現代の地球科学ではまだ解明が追いついていないからといえるでしょう。

スピリチュアルとオカルトの違いをアネモネ的に解釈すれば、そこに人類の霊的進化をサポートする高次の導きがあるか否か、です。宇宙は、高きから低きまで次元の層があり、高次元になるほど、愛の度合いが高まっていきます。

高次元の宇宙には、私たち人間をサポートしてくれるスピリットガイド(守護霊)やアセンデッドマスター(悟りを得た人格霊)、神や天使などの霊的存在がいます。また、プレアデスやシリウス、リラ、アルクトゥルスなど、地球より進化した星に住む霊性の高い宇宙存在もいます。そうした存在はみな愛と叡智にあふれ、高次元の霊域や星から私たちの成長を見守り、必要に応じてサポートの手をさしのべ、根源の光へと導いてくれているのです。

一方、オカルトの分野は、現代の地球科学や常識の範疇を超えた不思議なことや超常現象を扱っています。そのような現象を引き起こす存在の中には、霊性が未熟で愛を知らず、単に注目を惹きたかったり、いたずら心で関わってくる存在もいる、ということを知っておいてほうがよいかもしれません。彼らのアプローチは、愛に基づいてはいない、ということです。

アネモネはスピリチュアルなので、オカルトの分野をオカルトとして扱うことはしません。ですが、オカルトの中には、これから地球科学が飛躍的な進歩を遂げるような、未知の素材が埋もれている可能性も大。そのような“宝”を探し当て、スピリチュアルなエッセンスを抽出することも、アネモネの役割と考えています。

宗教とスピリチュアルの違い

スピリチュアリズムは、よく宗教とも混同されがちですが、この2つは似て非なるもの。一見すると同じようでも、突き詰めてゆくと、まったく違うことがわかります。

 

●スピリチュアルは神を信じても信じなくてもどちらでもOK

一般的に、宗教は特定の神仏を崇め、多くの場合、その思想をつくった教祖(開祖)や教典が存在しています。スピリチュアリズムは、特定の神を信仰することはなく、教祖や教典もありません。そもそも、神を信じていてもいなくても、どちらでもよいのです。

大切なことは、この宇宙を創り動かしている神聖な力や智恵と同質のものが、自らの内側にも存在しているという真実に気づき、それを発揮して生きること。その神聖な力や智恵を「神性」と表現するならば、自分や他人、この世や宇宙のすべてに神性を見いだし、宇宙を構成している愛を基準に生きる在り方そのものがスピリチュリズムなのです。

(宇宙の計画によれば、いずれ宗教はその役目を終えて地球からなくなり、スピリチュアリズムがそれにとって代わる、といわれています)

●スピリチュアルは高次元存在との共同創造

スピリチュアルでは、特定の神を信仰しませんが、アセンデッドマスター(悟りを得た霊的存在)から、そのときどきに必要なメッセージやアドバイスをもらったり、その人を守り導くスピリットガイド(天使や守護霊)や高次元の宇宙存在とともに、光の人生を共同創造していきます。

マスターや宇宙存在の中には、イエス、ブッダ、マリア、マグダラのマリア、観音、イシスといった、かつて人間だった歴史上の宗教家や覚者、神話に登場する神もいれば、アシュタール、サナトクマラ、マーリン、セントジャーメインなど、この宇宙で特定の働きをしている存在、また、バシャールやサーシャ、アドロニスなど、未来存在や恒星意識体など、さまざまな存在がいます。高次元の世界では、みながつながっているのです。

彼らはみな、私たちと対等な宇宙の仲間であり、役割の違いがあるだけで、序列や優劣はないといいます。また、彼らは、外の世界に姿や気配を現すこともありますが、一人ひとりの内側にある「光のインナーネット」でいつでもつながっている、自らの一部ともいえます。

スピリチュアルとは、一人ひとりがマスターになるための自己探求の道、というとらえ方もできるでしょう。マスターやガイド、宇宙存在は、そのための助力を惜しまず、むしろそれが喜びなのです。

もちろん、こうしたとらえ方は、スピリチュアルのひとつの側面にすぎませんので、なじまない方は受け入れる必要はありません。

●スピリチュアルは自己肯定

スピリチュアルでは、自分の意識や視点を、高次自己(ハイアーセルフ)の意識や視点へとシフトしていきます。すると、すべてが起こるべくして起こっている必然であることに気づき、必要な物・事・人は必要なタイミングで目の前に現れる「シンクロニズム」の領域に入り、運気が上昇して、人生にミラクルがたくさん起こり始めます。

高次の自己へと変容していくとき、宗教では、いまの自分を低く置いて自己否定からスタートすることが多いのに対し、スピリチュアルでは、「いまの自分を肯定しながら」シフトするのが特徴といえるでしょう。

宇宙的な高い視点から見れば、物事に良い悪いはなく、すべては経験して学んだり、バランスをとったりするために起こっています。「否定」するということは、そこに善悪の基準があるということ。勧善懲悪という言葉があるように、人類の歴史では宗教や道徳に限らず、善悪二元論が用いられてきましたが、スピリチュアルでは善悪に分かれる前の「統合された一なる世界(ワンネス)」に戻ることを目的としていますので、全肯定、オールOKなのです。

 

●スピリチュアルはノンジャッジ

善悪を断じることを「ジャッジ」といっていますが、スピリチュアルでは「ジャッジはせずにセレクト」していきます。セレクトとは、自分のいまの周波数(バイブレーション)に合ったものを選択していくことです。

●スピリチュアルは多次元的

スピリチュアルでは、多面的、多次元的に物事をとらえてゆくので、「こうでなければならない」という絶対の基準はありません。私たちは、絶対の基準をつくることで、その基準から外れている人を糾弾してしまいがちです。

ひとつの物の見方・考え方は「その階層(次元)から見たときに見える景色」に過ぎません。1階から見た景色と10階から見た景色では、同じものを見ても、目に映る世界が違いますね。それと同じように、多層・多次元構造になっている宇宙では、さまざまなものの見方が存在します。その中からどれを選択するかは人それぞれの自由で、そのときどきや成長の度合いによって、違っていてOK。むしろ、さまざまな階層から眺めることで、より大きな真実が浮かぶこともあり、スピリチュアリズムでは、むしろその“気づき”を大切にしています。

変わらないのは、私たち一人ひとりは、本来神聖な存在である、ということです。

 

●スピリチュアルは自分軸

自己探究を進めていくと、ある時点で「明け渡し(サレンダー)」という段階がおとずれます。自分の意志ではなく、神や宇宙にゆだねて生きる、ということで、よく「全託の境地」とも表現されます。

そのとき、自分の外にそれを求めてしまうと、なかには、自分が空虚になったり、自己価値がゼロのように錯覚してしまう方もいますが、そうではありません。「小我」が「大我(真我、神我)」へとゆだねるのであって、決して自分がなくなるわけではなく、むしろ、本当の自分になることをいっているのですね。

自分を自分以外の何かに明け渡して「他軸」で生きることは、それがたとえ神や神の教えといわれるものであったとしても、スピリチュアリズムの在り方ではありません。あくまでも、自己の内にある神聖さ、内なる神、聖なる「自軸」を基準に生きるのがスピリチュアリズムです。

大我(真我、神我)を主にできれば、自我(小我)をなくすこともありません。むしろその自我を、個性やキャラクターとして活用することで、この世で大きな貢献ができる場合もあるのです。

ご利益や開運術とスピリチュアルの違い

人生の目的は、幸せになることや、すでに幸せであることに気づくこと、幸せを実感することといっても過言ではありません。幸せの定義は人それぞれですが、なかでも、望みや願いがかなうことは、みなに共通しているのではないでしょうか。

世間では、神社めぐりがブームです。その根底には「神に近づきたい」という魂の本能が働いていますが、表面意識では、「神さまに願いをかなえてもらう」ため、という人が大半でしょう。

神さまは、もちろん、人間以上の力や智恵を持っていますが、だからといって、神さまにお願いするばかりでは、「自分には力が無い」と宇宙に公言しているようなもの。そうした依存体質から抜けて、私たちはそろそろ、霊的に自立する段階にさしかかっています。

私たちは、神さまにすがらなければ何もできないほど、力のない存在ではありません。願いをかなえる力は、じつは誰しもの内側に眠っているのです。その内なる無限の力を、外なる神に引き出してもらう、というのが、自己成長につながる健全な祈願法といえます。外と内の神がぴったり合ったときに、最大の力が発揮されるのですね。別の言い方をすれば、「内なる神と外なる神の共同創造」によって、想像以上の創造物がその次元空間に現れるのです。

神殿や神社が誕生した当初の目的は、日常生活の中でブレたり乱れてしまった自分の意識や周波数を、自分の内側の神聖な周波数にチューニングし直すことにありました。神殿での祈りは、外の神と内の神を共鳴させる方法だったのです。

神社のご神体が「御神鏡」である意味も、そこにあります。「かがみ」の「が(我)」を抜くと「かみ(神)」になる、とはよくいわれますが、まさにそのとおりで、御神鏡は、「あなた自身が神ですよ」という真実を言葉なく伝えてくれているのですね。

また、外の神の力を借りなくても、内なる神を引き出す方法はたくさんあります。アネモネで伝えているのは、そのような方法や考え方。スピリチュアルは、努力放棄でも現実逃避でもなく、弱い人がすがるものでもなく、自らに眠る無限の力を引き出して幸せに生きること、そのものなのです。

bottom of page